両親がY新聞を購読してるので応募した、「京都・仁和寺観音堂 特別公開記念講演会 (2)」に参加してきました。
仁和寺というと、古文の授業で読んだ吉田兼好作『徒然草』第五十二段を思い出す方が多いのではないでしょうか。
仁和寺にある法師、年寄るまで、石淸水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。極樂寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比(としごろ)思ひつること、果たし侍(はべ)りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」と言ひける。
すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。
私が訪問したのは、阪神大震災の次の年だった記憶があります。阪神大震災で壁にひびが入るなどの被害が出ていたので、次の年に行く事にしたのでした。
▼仁和寺のホームページ(とても上品!)
どんなお寺なのだろうと思い、今回の講演会参加に至りました。
仁和寺執行長の吉田正裕(しょうゆう)さんがお話してくださったのですが、大変興味深くて、面白かったので、紹介したいと思います。
仁和寺は皇族が作った格式高いお寺
仁和寺ですが、実は「格式が日本一高いお寺」だそうです!
886年に第58代光孝天皇が「京都の西にお寺を建てたい」と仰せられたのがきっかけで、残念ながら光孝天皇は887年に崩御されてしまったものの、第59代宇多天皇が引き継ぎ、888年(仁和4年)に建立されたのが仁和寺だそうです。
天皇が初代住職(こういうお寺や住職のことは「門跡」というらしいです)なので、「御室(おむろ)仁和寺」と呼ばれて、今も御室仁和寺駅や嵐電の御室駅にも残ってるんですね。
▼あの「もっと知りたい」シリーズに仁和寺が!当然といえば、当然ですが、初めて知りました。
もっと知りたい仁和寺の歴史 (アート・ビギナーズ・コレクション)
- 作者: 久保智康,朝川美幸
- 出版社/メーカー: 東京美術
- 発売日: 2017/11/30
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
藤原摂関家の時代に、あえて菅原道真を重用されたのが宇多天皇
宇多天皇、何か名前を聞いたことがあるけど、何したひとだったけ、、、と思って聞いていると、あの菅原道真を重用された天皇でした!おお!そうだった!
平安時代の「国風文化」を進め、「白紙に戻った遣唐使」で覚えた894年の遣唐使廃止も宇多天皇だったとか。試験に出たかもしれない。。。
宇多天皇が譲位された後も、次の醍醐天皇に重用され、右大臣まで上り詰めたのですが、藤原摂関家に嫌われ、太宰府に島流し(今なら、福岡の方がコスパ良くて、住みやすいですけどね汗)されました。歴史の授業が蘇ってくるようですね。
譲位されて、仁和寺の初代門跡になられていた宇多天皇でしたが、御所まで出向き、菅原道真の左遷を止めようとしたとか。フットワーク軽い。
宇多天皇の思いは片思いではなく、菅原道真も左遷の前に宇多天皇に謁見したいと、仁和寺まで来て、御影堂の前の「菅公腰掛岩」に座って待っていたとか。でも、会えなかったようです。この「菅公腰掛岩」、今でも仁和寺境内に残ってるそうです。この岩のある「水掛不動尊」は、後で紹介する仁和寺のパワースポットのひとつです。
仁和寺と北野天満宮には深い絆が
そんな宇多天皇と菅原道真の深い絆も虚しく、離れ離れになり、菅原道真は九州で他界。その後、御所に雷が落ち、「菅原道真の祟りだ」と恐れられたのは有名な話。そこで、菅原道真を祀ったのが、今の北野天満宮。
仁和寺と北野天満宮、歩くと結構、距離はありますが、宇多天皇の仁和寺の近くに建ててあげたそうです。
その後も北野天満宮の松が枯れたら、仁和寺の松を移植するなど、今も絆が残ってるそうです(最近は松も枯れる事なく、移植もしてないとか)。
▼摂関家に睨まれなければ、宇多天皇と雅な文化を継続していったのだろうなあ。
▼漫画で学ぶのが一番早い
幻の観音障壁画が初公開
実は今回のご講話は、「観音障壁画」の初公開がメインでした!
1467年の応仁の乱では、仁和寺も大きなダメージを受けたそうです。
先日、社内の京都出身の方も「応仁の乱以来、火事がないからねぇ」とおっしゃってましたが、吉田執行長からも、「京都人にとって、先の戦いは第二次世界大戦出なくて、応仁の乱なんですよね。」と苦笑されてました(吉田さんは広島県ご出身)。
応仁の乱から江戸時代、第三代将軍・徳川家光が二条城に来訪した1640年、仁和寺第二十一世の覚深親王が仁和寺の再建をお願いしたそうです。家光はその提案に同意。
家光が出資した金額、いくらだと思います?
24万両、今では200億円以上の価値だとか。
そんな再建の際、今度の令和の「即位の儀」でも登場する(?)、紫宸殿(ししんでん)を移築したのが、今の仁和寺の金堂(こんどう)だそうです。紫宸殿て、何度か使用したら建て直すので、こういうリユース、いいですね!
この再建でできた建物のひとつが今回、初公開の「仁和寺観音堂(重要文化財)」の「観音障壁画」です。
▼Y新聞にやってきた高細密復元の「観音障壁画」の一部(*許可を得て撮影しております)。
こちらは観音様の真後ろで、実際には横からしかでないと見えない観音様。
▼三十三分身体になって、人を救ってす観音様(たちっていうのかな?)
この観音堂は、修行僧しか入らなかった上、まだ日が昇る前に修行をしていたそうで、373年前に描かれた障壁画なのに、こんなに綺麗な色で残ってるそうです!修行僧時代、吉田執行長も、「暗くて、こんな壁画があったなんて、知りませんでした」とのこと(びっくり!)。
今回、この観音堂を6年かけて半解体して修復し(壁画は解体できないので)、初公開となったわけです。
「ワンピース観音」を探そう
吉田執行長のお話は本当に楽しくて、この三十三体に分身してる観音様の中には、人を救おうとして、「手が伸びてるお姿もあるんです。ワンピース観音ですね。こんな昔からワンピースあったんですね。」と。
今回やってきた複製画には、「ワンピース観音」様はいらっしゃらなかったので、現地で探してみたいと思います。
仁和寺の門は三大門
仁和寺の門も結構、大きいのですが、南禅寺、知恩院と並んで「三大門」と呼ばれてるそうです。他の門は禅寺で、2階に登れるのですが、仁和寺の門は登れないそうです。
東京の浅草寺の門は、なんと!仁和寺の門がモデルだそうで、やはり登れない門だそうです。知らなかった!
パワースポットに溢れてる仁和寺
仁和寺ですが、長い歴史があるだけに、色々な逸話の残る場所が多いです。
今風に「パワースポット」と呼ばれてましたが、こういうかわいいパンフレットから、若い方達も歴史やお寺に興味を持ってくれるといいですね。
個人的に気になったのは、「御影堂」の半蔀(はじとみ)にあるという、「金の蝉」! 蝉は「(鳴くので)防犯」や「再生・復活」の意味もあるのとか。再生・復活というか、そもそもずっと、地下に眠ってるロスジェネにも気になる存在、金の蝉!
また、このパンフレットには載ってませんが、お話では、「トンボ」もいるそうで、「前にしか進まない」ことから、良い意味を持ってるそうです。
▼仁和寺はパワースポットだらけ
令和の家光はんにならんとや
文化庁の方針が変わり、文化財は「保護する」から「保護をしつつ、利活用」、つまり、自分でも稼げや、ということになってしまったそうです。
「今の時代、家光はんはなかなか見つかりませんで」、とのことで、今回の「観音障壁画」の拝観料1000円(高校生以下は「次世代への文化支援」で無料!)で「令和の家光はん」になっていただけませんか?とのことでした。
▼本物の令和の家光はんになってくれるのは、外国人セレブ観光客かも!?でも、庶民の1000円が積み重なる事の方が大きい気がする。
嵐電の観音電車に乗って、「御室」駅から仁和寺へGo!
四条大宮駅〜嵐山駅または北野白梅町駅を結んでいる嵐電(らんでん)。とっても便利な上に情緒もあって、私は好きなのですが、期間限定で、「観音電車」なるラッピングカーが走ってるとか。
▼当たり前のように「嵐電」と書いてしまいましたが、京都で愛されてる路面電車で、桜の時期は、桜のくぐり抜けもあり、大人気です。
▼ホラー!?観音電車、天井から手がたくさん伸びてるんですね。これはたしかに「ホラー」かも!!
「観音障壁画」の公開に間に合わなくても、御室桜が待ってますよ
残念ながら、短い期間とはいえ、京都、奈良に住んでいた私も見たことがないのですが、仁和寺には、遅咲きで有名な「御室桜」という、背の低い桜があります。吉田さんによると、「地盤が泥か何かで根が張れなくて大きくなれないようですねえ」とのことです。
▼クリックすると、御室桜が咲く光景がみられます。
個人の感想
世界遺産にも認定されてる仁和寺ほどのお寺が、修復の際、経済的に困窮して、お坊さんが全国を復元屏風とともに巡ってる事はショックでした。仁和寺を訪問した際、良い意味で、観光地化されていないお寺で、京都に来たなあと感じた日のことを思い出しました。
私は、この仁和寺と同じく嵐電沿いにある広隆寺が好きなのですが、あの国宝第一号の「弥勒菩薩像」もそのうち、集客に励まないといけなくなるのだろうか、と思うと、寂しくなりました。